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映画『1917』を観た

概要

映画『1917』を観たので感想やら思ったことやら書いていく。
ネタバレあるかもなので注意。

本文

はじめに

この映画の特徴としてあらかじめ押さえておくべき前提に、全編ノーカット 1発撮り(のように観客は感じる)という点がある。カットで急に場所が移ったり会話する人物の顔が交互にアップになったりせず、ずーーっと 1台のカメラで 2時間撮影しっぱなし、のように思えるのだ。

なんで観たの

  • Twitter で上記のような長回しシーンのメイキング映像や画像などを見て気になった。
  • Twitter で「ゲームっぽい」・「監督もゲームの影響を受けていると監督が話した」というのを見てさらに気になった。

Twitter 見てたらこの映画を観たくなった。


ちなみに「監督もゲームの影響を受けていると監督が話した」というのは以下の記事を参照。
mashable.com

『ハーフリアル』っぽいタイトルだぁ

観た感想

オープンワールドを舞台にして、めっちゃ完璧にシームレスに展開するように作られた "Detroit Become Human" 。」と思った。

先に紹介した記事では監督がビデオゲームのようなことを取り入れたいと考えるきっかけになったゲームが何かは分からないが、とりあえず Third Person Shooter(TPS、三人称視点シューティングゲーム)だったらしい。
なのでこの映画に見られる「ビデオゲームらしさ」はつまり「TPS らしさ」になるんだろうけど、それ以外にもビデオゲームらしさを感じる部分があった。
ちなみに Detroit Become Human(以下「Detroit」)はプレイヤーが画面内のキャラクターを操作する場面でも厳密には TPS 視点にならない(シューティングすることが稀だし三人称視点ではあるもののカメラをプレイヤーが動かせる)のだけれど、いわゆる TPS よりもこの映画の映像に近いものを体験できると思う。
参考動画(実況プレイ動画)↓
www.nicovideo.jp

オープンワールド

ひとことで言えば「フィールドの見える場所どこでも行ける」タイプのビデオゲーム
これは「この映画が実写映画で現実にある場所を舞台に撮影しているから」とかいう理由ではなくて、全編ワンカット風な上に「さっき遠くに見えた建物まで歩いてたどり着く」・「しばらく移動して振り返るとさっきまでいた場所が遠くに見える」などのシーンを見せらることに由来する。
歩兵が陸上を徒歩で移動して伝令任務を遂行するという物語なので、少しずつしかし着実に目的地に近づいていくというオープンワールドタイプのビデオゲームならではの特徴的な印象を受ける。

シームレスな "Detroit"

まずこの映画は、ビデオゲーム的な言い方をすれば、ムービーパートとプレイヤーによる操作パートが交互に繰り返されて進んでいくと言える。
ビデオゲームではこの切り替わりは、様々な方法で為される。
例えばムービーパートは画面のアスペクト比が縦方向に狭まるとか、単純にプレイヤーが画面内のキャラクターを操作可能か否かで判断させるとか。
この映画ではその切り替わりを劇伴の ON/OFF で観客に知らせている。
ムービーパートは劇伴がなく、穏やかなシーンが主である。そのため観客もキャラクター同様にリラックスできる。
そして無音だったところに重々しい劇伴が入ると、あたかも何かミッションか果たすべき目標が提示されて操作パートが開始されるように感じられる、といった具合。

最近のビデオゲームで「シネマティック」と形容されるものがある。
例えば「人喰いの大鷲トリコ」や「Death Stranding」などがそれに当たる(と思っている)が、これらのビデオゲームではムービーパートから操作パートへシームレスに接続されるという演出がされている。
Detroit ではこの切り替わりがとても細かく行われる。
キャラクターを操作して、何かインタラクティブ可能なオブジェクトに接触すると、プレイヤーに要求させる具体的な入力とそれによって引き起こされる画面内のキャラクターの行動が表示される。
そしてその入力操作をプレイヤーが実行すると、その行動によって画面内のフィクションがどう展開したかを示す短いムービーが挿入される。
これを繰り返して展開を進めていく。

1917 では劇伴が流れて操作パートが始まると、ワンカットでシームレスなパート移行演出による(シネマティックな)ビデオゲームらしさも手伝って、主人公の全ての行動がプレイヤーによる選択の連続であるような感覚を(僕は)得られた。
分かりやすいものだと、敵から逃げるシーンでどの道を通って逃げるか、であったり、市民との会話でどんな話やアクションをするのかなどがある。
Detroit のように無数の分岐の中から偶然選ばれた一つの道筋を辿った結果としてのストーリーが映画になっていると言える。
と言ってもこれは話が逆で、Detorit はそういった無数の分岐から偶然選ばれた道筋をビデオゲームの中で展開していく点が特徴的なのであるし、およそ全ての物語は選択の連続である。そして 1917 はそもそも映画である。
このような反転を錯覚させるほどにビデオゲームらしいのだと言えばそれらしいかもしれない。
さらに言い換えれば、こういったあらゆる選択の積み重ねで物語が展開していくという根本的な部分を除いた他のありとあらゆる要素がビデオゲーム的な(プレイヤーとのインタラクションを誘引させるような)作りになっているのかもしれない。

また監督が取り入れたいと考えてものが TPS ということだったので、視点についても触れておく。
例えば塹壕の中を歩いていくシーンなんかは、カメラの位置がプレイアブルキャラクターに対して相対的に固定されている TPS そのものという映像である。
ただし映画の中では操作パート中であっても操作キャラクターに対してカメラの相対的な位置は激しく動く。
このようにカメラ位置が固定されないのは Detroit もそうなのだが、個人的にはホラー演出を強めるために多く用いられているように感じた。
具体的に言えば、例えばただ開けた草原を歩くだけ、川を下っていくだけ、というシーンではカメラはある程度定まった相対位置を維持して動いていた。
一方でより緊迫したシーンなどではカメラ位置の都合によって見えない恐怖感を煽るといった効果(初期のバイオハザードなどのような)が狙われていたように思える。

おわりに

1917 の撮影手法で All You Need is Kill を撮ったらそれはもうゲームだなと思った。